小津先生がいつごろからお見えになるようになったのか私は存じませんが、『全日記小津安二郎』の昭和8年11月23日に、店の名が記されています。
蓬莱屋は大正初年に祖父の山岡正照が、松坂屋の南の横丁に屋台を出したのが始まりです。当時からヒレカツ一筋でした。昭和3年に、松坂屋の裏のいまの場所に店を構えました。
祖父が亡くなり、二代目の父の晴之に母が嫁いで、昭和14年に私が生まれて、ですから先生は私よりも先にウチのお馴染み様なのです。祖母は元気に店を手伝って、100歳まで長生きしました。
昭和23年にいまの建物を建て替えました。1階はカウンターに9席、2階は8畳と2畳の座敷で、この2畳を数年前に6畳に広げました。壁を塗り替え、カウンターを新しくして、氷の冷蔵庫が電気冷蔵庫になり、昔とは違っていると私どもは思うのですが、みなさんは変わらないねとおっしゃいます。
私は一人娘で、連れ合いの吉孝が昭和50年ごろからマスターで店に立ちました。父の跡の3代目を継いで、高温と低温の2つの油を使う独特の揚げ方で蓬莱屋の味を守っています。
小津安二郎先生の思い出は、「大きくなったね」と頭を撫でてくださっったこと。小学生になりたてのころでしょうか。幼いころから親にまとわりついていたのをご覧になっていらしたのですね。
撮影所に遊びにおいでと言ってくださって、女学生のころ何度が大船へ友達と参りました。店で見る優しい小津安二郎先生ではなく、厳しい別人のようでした。名刺になにか書いてくださって、撮影所の前の「月ヶ瀬」に持っていくと、飲み物や食べ物がでました。この店にはのちに佐田啓二夫人となる益子さんがいました。サイン帳にスターさんのサインをいろいろ貰ったのですが、そのうちどこかへまぎれたきり。
小津安二郎先生は蓼科の別荘への行き帰りや、上野の博物館、美術館の帰りにお寄りくださいました。いつもどなたかとご一緒で、野田高梧さんや佐田啓二さんのご家族ともお馴染みになりました。
小津安二郎先生は白いシャツをいつもお召しでした。同じものを何枚もお持ちだったそうですね。ピケ帽をかぶってました。カウンター席の時はいつも手前の端。いつだったかファンの方がその席で召し上がりたいと。
父は、大船の撮影所へヒレカツを届けるときは自分で行きました。小津安二郎先生の日記にも昭和35年8月11日に「とんかつ屋のセット 上野蓬莱屋の主人とんかつを持ってくる・・・・」とあります。 小津安二郎先生をとっても大切にしていたのに、色紙一枚、一緒の写真一枚お願いしなかった。だから記念のものは何にもないんです。店に飾ってある色紙はマスターの友達がたまたま小津安二郎先生の縁者で、その方が複写してくださったものです。「秋刀魚の味」の完成記念に、父は、秋刀魚の形の陶器と台本をいただいてきたのに、陶器は割れるは、台本はなくすは。 ものに執着しない血筋かもしれません。
あるとき母が生けた都忘れを、小津安二郎先生が「いいね」と言ってくださって、母はうれしくて何度もその話をします。その花がお好きだったのでしょうね。
たしか小津安二郎先生が亡くなる前日に、鎌倉から先生の関係の方がお土産を買いに来られました。病院へ持っていかれたのでしょう。
先生の映画を私が初めて見たのは共立講堂の試写会で『秋日和』でしたか、岩下志摩さんがとっても綺麗でした。じつは『東京物語』も『秋刀魚の味』もちゃんと見たことがなかった。いまごろ生誕100年記念のDVDで見て、びっくりしているのです。
一昨年、突然益子さんから、伺うとお電話を頂いて、約40年ぶりでしたが、すぐわかりました。すらりとした美人で、中井貴一さんがお母さん似、貴恵さんがお父さん似と思います。
小津安二郎先生のご贔屓に感謝しています。誇りです。
故 山岡克江